当時スポランでこれだけ連勝した人はそうそういないはずで、知ってる人も少なくないかも。
連ジ全盛期をその中心で経験したプレイヤーが、今や出世して業界屈指のアーティストに。
未だ連ジ中毒のオッサンからすると、過ぎ去った年月に不思議な感傷に囚われてしまいます。
山口県で生まれ育った少年がエフェクトスペシャリストになるまで~ステルスワークス米岡 馨に聞くCGアーティスト人生(前編)
米岡:そうですね。はじめてSu-27でプガチョフ・コブラを見たときは衝撃を受けましたね。その一方で、高校の頃からゲームセンターに通うようになり、大学生時代に『機動戦士ガンダム 連邦vs.ジオン』(2001)にハマりました。自分がゲームをしていたのは新宿スポーツランドの本館で、都内から強者が集まってきていたんです。
CGW:おお、新宿スポランといえば格闘ゲームの聖地ですね。
米岡:自分は昔からスーパーファミコンじゃなくてメガドライブ的な、ちょっと王道を外れたがる癖がたまにあって、『連邦vs.ジオン』でもゴッグとガンタンクをよく選択していたんです。周りは誰も使っていませんでしたが、自分はそこにポテンシャルを見出して、戦術などを極めました。同じように新宿スポランに来ていた、めちゃくちゃ上手いシャア専用ゲルググ使いと組んで、70連勝以上したことがありましたね。1時間以上座りっぱなしで、どんどん挑戦者を撃破していって。
CGW:突き詰め方が半端ないですね。
米岡:自分は広く浅くではなく、ものすごく狭い点を突き詰めるタイプなんです。そうなると、だんだん噂が広まっていきました。東京中の上手い奴らが集まってきて、彼らとゲームをすると、感覚が研ぎ澄まされていく感じがありました。今、ここに相手がいて、こういう状態だから、次はこう動くだろうな、というのが瞬時にわかるという。ニュータイプってこういうことかと思ったこともありましたよ。模試で全国1位になったときが人生最大のピークだったとしたら、2番めはこの『連邦vs.ジオン』時代でした。
CGW:今だったらそのままeスポーツの選手になっていたかもしれませんね。
米岡:そうかもしれませんね。それで、仲間のゲーマーと情報交換しているときに「自分のもっている情報は惜しみなく出したほうが良い」と思ったんです。これは今でも常々言っていることで、自分から良質な情報を発信していれば、周りにすごい人が集まってきて、もっとすごい情報が手に入り、自分がさらに成長できるという。自分の手の内を明かすことは、巡り巡って自分も得をするということですね。最近は「信用経済」という言われ方もしますよね。それに近いというか。あいつの言うことなら信用しようという。
CGW:それは1970年代生まれだからではないでしょうか? 1960年代生まれは、なぜか手の内を隠したがるんです。『ドルアーガの塔』(1984)で攻略法を隠して遊んでいたプレイヤーは、その典型例で。
米岡:ははは(笑)。ただ、最近CG業界でカンファレンスが増えたり、SNSやブログで情報を発信している人が増えているのは、逆にCGが複雑になりすぎて、1人ではどうにもならなくなっている現状があると思うんですよ。だからこそ、情報をどんどん出すことで、逆に他の情報を入手して、補っているんじゃないかなと。自分も2010年代になって、リニアワークフローが流行りだした頃、ゼネラリストはきついんじゃないかと感じるようになりました。